代表者紹介

~「やっておけば良かった」ではなく

「やって良かった」と思い返せる人生を~

~「やっておけば良かった」ではなく「やって良かった」と思い返せる人生を~

 私は幼い四人の子どもを育てる父親でありながら、世間一般には安定していると言われる公務員の道を自ら飛び出し、行政書士として独立しました。

 事務所名の「Restart」には、私自身の人生を賭けた覚悟と、「現状を変えたい」「前向きに未来へ進みたい」と願うお客様の新たなスタートを支えたいという強い想いが込められています。

 私のモットーは、「やっておけば良かった」ではなく「やって良かった」と思える人生を送ることです。

 ご相談いただいたお客様にとっても、「あの時、相談して本当に良かった」と笑顔で振り返っていただけるよう、どこまでも泥臭く、誠実に伴走いたします。

 行政書士だからこそ、皆様のお役に立てることがきっとあるはずです。

 お困りごとやご不安があれば、どうぞお気軽にお声がけください。

 皆様とのご縁を心よりお待ちしております。

行 政 書 士 仙 場 洋 平 

氏  名仙 場 洋 平(せんば ようへい)
所  属Restart行政書士事務所 代表
保有資格・行政書士(登録番号:第25132674)
 埼玉県行政書士会 吉川支部
<業務関連>
・CCUS登録行政書士
そ の 他・FP2級(AFP認定者)
・宅地建物取引士(宅建)試験 合格
・自治体法務検定ゴールド(基本法務・政策法務)
・証券外務員一種 合格

人見知りで、堅苦しい人間だと思われることが多いので、まずはMy Storyを通して、自分自身を知ってもらおうという考え、幼少期からのエピソードをまとめてみました。
が、しかし、あまりにも書きたいことが多かったのと、私の要約能力の無さが災いし、2万字を優に超える自伝レベルの超大作になってしまいました。
もはや、私の人生の棚卸作業です。
自称:日本一長い行政書士のプロフィール
なんじゃないかと勝手に思っています。
作成者自身も、やり過ぎたと思っているので、どうぞ肩肘張らずに興味があるところだけ暇つぶしに程度に読んでください。
当時の私を知る方々は、アイツ、あの時こんなこと考えてたんだ、その後のアイツはこんな人生を歩んでいるんだぐらいの微笑ましい気持ちで読んでください。
これをきっかけに久しぶりに連絡してくれても良いですよ!
様々なエピソードを通して、「仙場洋平」がどんな人間なのかを知るきっかけになれば幸いです。
個人的には超楽天家でON・OFFのメリハリが激しい人間だと自負しております。
妻からはちゃんと社会人として仕事をしているのかたびたび心配されています。
なお、内容については、当時の私の個人的な考えが記載されています。
記載されている内容については個人の見解であり、所属していた組織等を代表するものではございませんので、ご了承ください。

ひたすたサッカーに明け暮れた幼少期

1989年(平成元年)8月1日生まれ。血液型B型。
埼玉県鴻巣市生まれ。
※埼玉県で自動車の運転免許を取得した人なら誰もが知る、免許センターは近所で、隣の陸上競技場でよく走りこんでいました。

<鴻巣北小時代>

あまりにも公園で遊びたくて、家族でディズニーランドに行くのを必死で拒むほど外遊びが大好きな少年でした。
結局、当時流行っていたミニ四駆のツールボックスを買ってもらう約束で見事に買収されるような少年です。

小学校2年生からサッカーをはじめて、そこからはずっとサッカー漬けでした。
小学校の途中からクラブチームに入り、プロサッカー選手を夢見て、毎日毎日ボールを蹴り続け、小学校の卒業文集には「世界一のサッカー選手になる」って書いていました。

<鴻巣北中時代>

中学時代も引き続きクラブチームでサッカーを続けつつ、スピードを向上させたいと思い、学校では陸上部に所属していました。
当時は、陸上部の朝練(外周タイムトライアル)→学校→陸上部の午後練→クラブチームの練習(練習場まで片道4キロ走って行ってました。)という毎日でしたが、もっと上手くなりたい一心だったので、特にキツイとか辛いとは思っていませんでした。
※なお、中学2年生の時の陸上部の新人戦で、地域の有力選手たちが他校のライバルを警戒して他の種目を選択した結果、市内で私一人が100m走にエントリーすることになり、そのまま市内1位として県大会に出場したのはここだけの話です。
中学3年生の夏に某Jリーグのチームのユースセレクションで最終選考まで残り、1週間ユースチーム(高校生)に練習参加をしました。
結果的に不合格となってしまったのですが、当時はかなり自分に自信があった中で、高校生との体力差や技術力の差、スピード感の違いを見せつけられる結果となり、サッカーにおいて初めての挫折を味わいました。

<早稲田大学本庄高等学院時代>

偶然に偶然が重なった結果の入学となりました。
後々、思い返すと、私は昔から人生のターニングポイントでこういう幸運に恵まれることが非常に多くあり、何かと良いことを引き寄せられる特異体質だと勝手に思っています。
入学直後の英語の試験で、勉強をしたにも関わらず、「学年252人中249位」という順位をたたき出してしまいました。
もう当時の自分としては笑うしか無かったです。まあ、今振り返っても笑うしかありませんが(笑)
この話には続きがあって、その後の大学時代に、今でも仲の良い友人から「あの時、お前は249位って笑ってたけど、実は俺が248位で下の人間が身近にいて安心した!」とカミングアウトされる結果となりました。

なお、彼はその後、TOEICは900点以上、中国語も話せて、司法試験にも合格するという超人に進化しました。
この体験から人間は継続性がいかに大切かを身を持って学びました。
まあ、みんな違ってみんな良いということで。
サッカー面では、高校1年生の2学期から東京のクラブチームでサッカーをやっていました。
さらっと書いてますが、私の高校は本庄市(埼玉の最北)で、そこから毎日東京まで通っていました。
高校からだと練習場まで2時間以上かかりましたが、真剣にサッカーができる環境ができる環境があって充実していました。
自分のやりたいことをやらせてくれた両親には頭が上がりません。

勉強面では「留年」という二文字にこの上ない恐怖を覚えながらも、仲間たちとともに無事に卒業できて良かったです。

体力の限界など無いことを知る大学生時代

高3あたりから、将来は高校サッカーの指導者になりたいと思うようになり、教員免許を取得するために、
早稲田大学教育学部地理歴史専修に入学しました。
(※後に就職活動に切り替えたため、教員免許は持っていません!)

<鎌倉市で一人暮らし開始>

大学2年の時にやっぱりサッカーをやり切りたいという思いが強くなり、鎌倉市に住んで、神奈川県の社会人チームに入団し、週5くらいでサッカーをやっていました。
最終的にトップチームには上がれませんでしたが、セカンドチームの一員として神奈川県社会人サッカーリーグの3部を全勝優勝で2部に昇格できたのは良い思い出です。

<ドキドキの人生初バイト!>

学生時代はとにかくいろんな経験をして、いろんな人と出会い、どん欲にいろんな生き方を学ぼうと思っていたので、初めてのアルバイトは早朝清掃員のアルバイトを選びました。
毎朝6時から8時まで清掃員として働き、そのまま大学に行って、夕方からはサッカーをするという日々でした。
この時から早起きは得意です。
バイト先では、同年代の人は全くおらず、おばちゃん達から「もっと良いバイトあるでしょ!(笑)」と冗談半分に言われましたが、同年代の人があんまりやらないからこそ、同年代の人が経験できない経験を積むことができると思っていました。

<新聞社でのアルバイト開始>

清掃員のアルバイトをする傍ら、新聞社でアルバイトをしていた兄から、欠員が出てアルバイトが足りないからやってみないかと誘われ、新聞社でのアルバイトも始めました。
某大手新聞社で、社員の方と一緒に上がってきた原稿の誤字とか転記ミスのチェックです。
文字にすると一見簡単そうに思えますが、締め切り前のピリピリ感、
(社員の方が最終チェックはしますが)万が一ここで見落としてしまうと誤った情報が全国に流れてしまうという緊張感がありました。
ただ、自分がチェックした原稿が、新聞記事としてコンビニで売られているのを見ると、非常に感慨深いものがありました。
思えば、市役所職員もそうですし、今の行政書士の仕事もそうですが、私は文書の校閲という仕事には縁があるなと勝手に思っています。

<鎌倉と言えば人力車!>
これぞ鎌倉!

いろんなことを学ばせていただいた早朝清掃員のアルバイトですが、半年ほどで雇用先がまさかの倒産。
次は何のアルバイトをしようかな~、ス〇ーバックスとかでバイトしたらお洒落だよな~とか思っていた矢先、私の中のリトル仙場が囁きかけます。
「せっかく歴史ある鎌倉に住んでいるんだから、ここでしかできないことを経験した方が良いじゃん!」
鎌倉でしかできない特殊な経験・・・そうだ、人力車だ!
という、今思い返すと信じられないような驚きの思考回路で人力車を引くことを決意。
当時は求人も出ておらず、ダメ元で会社に電話してみると、快く受け入れてもらい車夫(人力車を引く人のこと)生活がスタートしました。
人力車の車夫の方達は、想像よりもさらに熱く、とても良い人達でした。
みんなとにかく、営業力とトーク力が凄まじい。
そして、仕事に対する誇りと情熱を持っていました。
その後、職業車夫だった方々の多くは、様々な業界で独立して中には本を出版する人もおり、また学生車夫組は私を含め数人しかいませんでしたが、その後アナウンサーになったり、営業のプロになったりと、今はそれぞれの道で活躍しています。
まあ、全く驚きは無く、むしろあの環境の中でやっていく人はどこに行っても強いよなと思っています。

<意外とちゃんと勉強もしていた学生時代>

大学4年生になるまでは週5でサッカーをし、サッカーの無い日は新聞社で校閲のバイト、日中は人力車という、今思えば基礎体力にものを言わせた凄まじいスケジュールの学生生活を送っていました。
これだけ破天荒な日常を送っていると、高校時代に「留年」の二文字に怯えていた身としては、
「学生の本分は勉強だろ!」
とお叱りを受けそうなものですが、ここで私の負けず嫌いが発動し、
「サッカー(バイト)ばっかりやってるから勉強できないのはしょうがないよね!」
と言われるのが本当に嫌だったので、大学の勉強もちゃんとやっていました。
体育(フォークダンス)の授業にいたっては、サッカーの試合で右ひざの靭帯(内側側副靭帯)を断裂していたにも関わらず、欠かさず毎回出席していました。(恐らく他の種目だったら、ケガを理由に欠席していたでしょう。)
まあ、冗談はさておき、これは附属校生あるあるかも知れませんが、附属校生の多くは大学入学時に受験で入ってきた同級生達の方が遥かに学力が高いことは重々承知しているため、その危機感から入学後は真面目に勉強し、結果的には優秀な成績で卒業する生徒が多い印象です。

<東日本大震災を機に変わった進路>

元々は教員志望でしたが、周りの人たちにも感化され、いつしか一般企業への就職に気持ちが傾いていました。
今後のことを考えると、ちょうど教育実習の時期と就職活動の時期が重なりそうだったこともあり、大学3年生になる時には、教員免許は諦めて、就職活動を行うことに決めました。
当時は、大学3年生の冬ぐらいから水面下で就職活動が始まっており、私自身は鉄鋼会社が第一志望でした。
鉄鋼会社ってあまり馴染みが無い方も多いかもしれませんが、鉄はあらゆるインフラを根底から支える超重要資源であるのはもちろんのこと、鉄には薄さや強度、不純物の少なさなど日本が誇る高い技術力がたくさん詰まっています。
私自身の小さい頃の夢である、世界一のサッカー選手になることはできませんでしたが、
「日本の代表として鉄の舞台で世界と戦いたい」
という、思いがあり、鉄鋼会社を志望していました。
面接(面談)は順調に進んでいましたが、選考の途中で東日本大震災が起き、まさかの採用活動が無期限の中断・・・。
今後採用が再開するかも分からない中、その当時兄が製薬会社で働いていたこともあって、自社の薬を通して、いろんな人の健康を支える製薬会社に興味を持ち、採用試験を受けたところ、まさかのとんとん拍子で内定。
その後、第一志望だった鉄鋼会社から面接再開の連絡が来るも、自分を必要としてくれた製薬会社へと気持ちが傾き、選考がストップしたのもある意味運命みたいなものだと悟り、辞退の連絡をしました。

<今しかできないことシリーズ①:小笠原諸島に行く>

幸運なことに、大学4年生の4月には内定を頂いていたため、残りの1年は今しかできないことをやろうと、全力で挑みました。
これぞTHE・大学生という感じです。
ただ、飲み会をとにかくやるとか、バイトをやりまくるとか、そういうものではなく、とにかく社会人になったらできなくなりそうなことは今のうちに全部やっておこうというスタンスを大切にしていました。
ご存じの方も多いかと思いますが、小笠原諸島は船でしか行けません。
そして、その船が片道24時間以上かかります。
さらに、一度行ったら1週間は帰って来れません。
社会人になってから行くにはあまりにハードルが高過ぎるため、大学4年生の夏休みに2週間行きました。
往路は地元も人も驚くほどの大荒れの航海でしたが、酔い止め薬の凄まじい効果を身を持って体感しました。
(なお、酔い止めの効果を軽んじ、自身の乗り物に対する耐性を過信していた私には、後にイルカと泳ぐドルフィンスイムで地獄を味わうことになることなど知る由もありません。)
小笠原諸島自体は言わずもがなで本当に素晴らしいところでした。
どれくらい魅力的だったかというと、現地で知り合った外資系証券会社の幹部だった女性の方が、私を含む周りのバックパッカー達の説得を振り切り、滞在中に会社を辞めるという大胆な行動に出てしまうほど、自然の素晴らしさと現代社会の窮屈さを身を持って感じさせてくれる場所でした。

<今しかできないことシリーズ②:リアル俺たちの箱根駅伝>
箱根のゴール地点での記念撮影


誰もが知る日本の冬の風物詩「箱根駅伝」
1秒でも早く襷(たすき)を繋ぐため、チームのために、走り続けるその姿は、見ている者の心を揺さぶり大きな感動を生み出します。
そして、その箱根駅伝で毎年多くのドラマが生み出されるのが、5区の山登り。
この山登りでは、数々の山の神が誕生しますが、私が4年生の箱根駅伝でも、2代目山の神がおり、それはそれは圧巻な走りでした。
当然、私もそのような激走に心を動かされた一人で、同年代の活躍を目の当たりにして心から凄いなと思う一方で、ある興味が頭に浮かびます。
「箱根駅伝のランナーたちが駆けあがる箱根の山登りって、実際にやってみたらどれだけキツイのだろうか?」
思えば、学生時代の思い出作りの一環として「山手線一周を歩いた」という話は聞いたことあるけど、「箱根駅伝のコースを歩いた」という人には、少なくとも自分は会ったことがない。
これは何とも面白そうじゃないかということで、今でも仲が良い友人たちと読売新聞東京本社ビル前に集合して、箱根の芦ノ湖を目指しました。

今調べたら、当時の選手たちはこの往路を5時間30分を切るというとんでもない記録で走破していたようです。
我々は4日近くかかりましたが・・・。(当然、”走”破ではありません。)
ただ、身を持って箱根駅伝を体感した私だから自信を持って言えることが1つあります。
「箱根の山は走って登れません!」
この日を境に、箱根駅伝のランナーたちに畏敬の念を抱くようになったのは言うまでもありません。

<今しかできないことシリーズ③:そうだ、南米に行ってみよう!>
これぞ絶景!ウユニ塩湖
気分はモデル!マチュピチュ
南米唯一の平和な島!イースター島

学生時代にご縁があってお会いした方が、夫婦で世界を2周するというなかなかファンキーな人でした。
世界のあらゆるものに見て、触れてきた人にとって、印象深いところってどこなんだろうと気になり聞いてみたところ、帰ってきた答えが「ボリビアのウユニ塩湖」。
雨季には一面鏡張りの世界となり、それはそれはこの世のものとは思えないような絶景が現れるという。
これは、今行くしかないんじゃないか?と心が奮い立ち、卒業直前の春に、一人旅に出ました。
社会人になったら長期の休みも取りにくそうだし、せっかくならいろいろ周りたいなと、アメリカ経由でペルーに行き、ペルーのマチュピチュやナスカの地上絵、ボリビアのウユニ塩湖、チリ(イースター島)のモアイ像など巡る旅です。
当所の目的であったウユニ塩湖は、想像を遥かに超えた絶景でした。
それはそれは、正しく言葉にできない美しい世界が広がっていました。
後々聞いたら、どうやらその日がここ数週間で最もコンディションが良い日だったようで、絶景を見るために現地にずっと滞在していた人たちから、冗談まじりに初日で滞在終了はズルいと言われました。
ここにきて、持ち前の強運を発揮したのだと悟りました。
スペイン語なんてもちろん喋れない中での南米一人旅だったため、数々のとんでも出来事がありましたが、全て書き出すと書籍レベルになってしまうので、ここではダイジェスト版にとどめて、詳しくはお会いしたときにでも気軽に聞いてください!
【南米で起きた主な出来事】
・勢いで南米に行くと、初日に宿なしでペルーのリマ空港で野宿することになるので注意!
・caro(カーロ:高い)だけ知ってれば、あとは日本語で押し切れる!
・とにかく、日本人宿を探すべし!
・ナスカの地上絵は、飛行機がアクロバット過ぎて地上絵を見るどころの騒ぎじゃない!
・世界のマ〇ドナルドは偉大!
・世界のト〇タのラン〇クルーザーは川をも渡ることができる!
・イースター島は唯一南米で心休まるのんびりした場所!
・衝撃の事態発覚で、最終日に現地で日本円しか持っていなかった男!

青春とは熱量!やりたいことが尽きない社会人~

社会人になってもいろいろなことがありました。
学生時代はいろいろなことが知りたいという好奇心が中心でしたが、社会人になると、こういう人生を歩みたいという、将来のビジョンが思考の中心になってきます。
いろいろな迷いや苦悩があったことは事実ですが、今こうして4児の父として、ドタバタながらも充実した日々を過ごしていることからも、その時々の決断は決して間違っていなかったし、あの時、やって良かったという日々を積み重ねることはできていると思っています。

<武田薬品工業株式会社:研修期間中>

私はMR(医薬品の情報提供をする人という名の営業職)として入社したので、入社後半年間は大阪吹田市の研修所で、ひたすら薬学とか病気のメカニズムとかを学びました。
また、武田薬品工業は「タケダイズム」という企業理念を非常に大切にする会社で、あらゆる局面でこの企業理念に立ち返って行動することの大切さを叩き込まれました。
なお、タケダイズムは私の事務所の理念にも脈々と受け継がれています。
(参考:当事務所について)
108人の同期がいた中で、体感的には薬学部出身者は半分程度(もっと少ないかも)で、それ以外は私を含めて薬学なんて一切知らない状況からのスタートでしたが、みんなでワイワイ切磋琢磨した日々は学生時代の延長みたいでとても楽しかったです。
同期の子も、スーパーマンみたいな子がたくさんいるわけではなく、本当に多種多様な人材が揃っていて、今振り返れば時代に先駆けて積極的に多様性を重視する会社だったんだなと思いました。

<武田薬品工業株式会社:いよいよ配属先決定!>

楽しかった研修も終盤に差し掛かり、いよいよ配属先が発表になるタイミングです。
配属先候補は北は北海道から南は沖縄まで本当に全国規模でした。
結果的にそんなことは全然無かったのですが、関東の大学の人は西の方へ、関西の大学の人は東の方へシャッフルされるという噂もあり、内心ドキドキでした。
今だから言えることですが、私は全国どこでも行きます!という感じではなく、学生時代から付き合っていた彼女(今の妻)とあまりにも遠距離になり過ぎるのは流石に勘弁してほしい、お願いだから関東に留めて下さいという祈るような心境でした。
そして、いざ配属先発表の日・・・。
研修中に組んでいたグループごとに集められると、一人ずつ個室に呼ばれ配属先を告げられていきます。
笑顔で入室していった同期たちが、涙を流して部屋から出てきます。これはマズイ。
配属先を聞いていくと、旭川・札幌・盛岡とのこと。
これを聞いた私には微かな希望が湧いてきます。
「旭川・札幌・盛岡ということは北から来ている。そしてまだ関東は出ていない。もしかしたら関東配属になるかも知れない・・・。」
そして、私の番。
入室後に簡単な挨拶を交わし、研修官の方から配属先を告げられます。
「仙場さんの配属先はタナザワ営業所となります。」
タナザワ?
関東か関西かで気を揉んでいた私は、全く予想外の角度から身に覚えのない地名を唐突に告げられて、全く理解が追いつきません。
タナザワってどこ?
私がタナザワってどこですか?と聞き返すと、
「タナザワではありません。石川県の金沢市です。」
(い、石川!?しまった関東を飛び越えてしまった!)
と内心思いましたが、1年目の若造にはYESかハイの選択しかありません。
こうして私の配属先は石川県金沢市に決まりました。
【余談】
配属先発表の時は、北陸と聞いてとてつもなく遠い場所だと落胆していましたが、調べてみたら、関西よりは関東に近いし、私の後に告げられた同期たちの配属先は四国とか九州だったので、実は絶妙な配属先だったことが後に判明しました。
なお、旭川に配属された同期は、後に担当エリアからロシアが見えると話していました。
沖縄に行った同期もいたことからも、本当に全国規模の配属決定となっていました。

<武田薬品工業株式会社:金沢営業所での日々>

新人のMRの多くは担当のエリアを持って、そのエリアの病院を周り、自社の薬の有効性を先生方に説明するのが一般的かと思います。
私も、複数の自治体を担当するのかな~と内心思っていたのですが、告げられたのはまさかの国立大学病院担当でした。
同期でも大学病院担当は数人いるかどうかだったので、結構異例な抜擢だったんじゃないかと思います。
当然、新人が一人で対応するのではなく、チームを組んでリーダーが担当する科(医局)を割り振っていて、私自身は脳神経外科が主な担当でした。
当所、想定していた働き方とは異なりましたが、この国立大学病院の担当は非常に良い経験となりました。
私自身は毎日医局の前に立って、先生や研修医の方々に情報提供させていただくのですが、国立大学の先生方はとにかく研究熱心で真面目な先生が多かった印象です。
(私大だと雰囲気がかなり違うようですが、私は経験していないので分かりません。)
本当にこの人たちいつ休んでいるんだろうと思うレベルで、朝も夜もいつ行っても医局には多くの先生方がいて、論文書かないといけないからここ数週間は毎日3時間睡眠だよ~て笑いながら話してくれる先生もたくさんいました。
医学の発展のためにひたすら研究に励む先生方の姿を見て、自分は医師にはなれませんが、先生方みたいに専門家としてその道のプロフェッショナルになりたいな~と薄々思い始めたのがこの頃です。
ちなみに、当時は医師って怖そうだなとか、横柄なのかなっていう先入観を持っていましたが、大学病院の先生方は、新卒で誰よりも年下(研修医の先生よりも!)の私に対しても変わらぬ態度で接していただき、その常に謙虚な姿勢は、今も私自身の手本となっています。

<武田薬品工業株式会社:大手企業の凄みを知る>

武田薬品工業は他の製薬会社の方から「ソルジャー」の異名で呼ばれるほどの会社でしたが、世間一般でいうブラック企業とは真逆の、福利厚生も労働環境も待遇面も素晴らしい会社でした。
MRはある種の営業的な側面があるため、営業成績は当然求められますが、配属1年目が営業のことで詰められることも無く、仮に新人でなくとも売上だけを追求した営業活動は求められていなかったように思います。
あくまでも全ての社員がタケダイズムに則って、真に薬が必要な人に薬を届けようというスタンス。
目先の自社の利益を追求するのではなく、社会全体の利益を最優先する。
そんなブレない姿勢があるからこそ、長きに渡って製薬業界を牽引できる会社なんだろうなと感じました。
ちなみに、この姿勢も私の事務所に脈々と受け継がれていて、弊所は無理な営業はしないというのを大前提にしています。
行政書士事務所といえど自営業なので当然売り上げを意識することは大切です。
でも、それ以上に大切なことは、真に必要としている人に必要なサポートを届けることです。
なので、ご相談いただいても自分で対応できそうな方にはその旨をお伝えしますし、こちらが面談に向けて準備をしていたところ、当日に対応できる見込みが立ったということでキャンセルのご連絡をいただくということもありましたが、その際もキャンセル料等はいただいておりません。
当然その場においては事務所の利益には直接的に繋がりませんが、お客様の課題解決という本来の目的に対して、私なりの最善の方法をご提案させていただくことで、お客様の利益が最大化し、ひいては将来に向けて良好な関係を築いていけることこそが、将来的には弊所にとって最大の利益があると考えているからです。

<武田薬品工業株式会社:退職を決意>

武田薬品工業は本当に素晴らしい会社で、いろんなことを学ばせていただき入社して良かったと思える会社です。
私は幸いなことに周りの人間にも恵まれ、同期はもちろんのこと、配属先の金沢営業所でもたくさんのサポートをいただきました。
特に当時お世話になった担当チームのリーダーは、いまだに私のことを気にかけて毎年年賀状を送ってくださるなど、営業面だけではなく人間性の面においても非常に尊敬できる方でした。
素晴らしい環境に身を置かせていただいた私ですが、実はこの武田薬品工業をわずか1年6か月(金沢に行ってから1年)で退職しています。
ここまで紹介したように、退職の理由は仕事内容でも人間関係でもありません。
では何故かと言うと、私が将来描く理想像や家庭像と、現実的に想定される今後のキャリアとの間にどうしても埋めることが難しいギャップがあることを痛感したからです。
その埋められないギャップとは何かというと、
「全国転勤」
です。
まず、断っておきますが、これに関してはいろんな考え方があり、人によって正解は異なります。
あくまでも私自身の考え方(人生観)に基づくものです。
もちろん、全国転勤があるということを知った上で入社をしていますし、
むしろ学生時代は、全国転勤上等!バリバリ働いてやる!何なら海外勤務したい!
ぐらいのモチベーションでした。
ただ、社会人になり、おぼろげながらも将来自分が築いていきたい「家庭」を意識すると、答えが変わっていきました。
金沢営業所の男性の方で既婚者の方の多くは単身赴任です。
金沢に家をかまえていた人もいましたが、転勤になれば単身赴任です。
家族で移住している方は、俗にいう転勤族となります。
見方によっては、自分の自由な時間も確保できる、いろんな土地で生活できる、数年ごとに人間関係をリセットできるというメリットもあるでしょう。
当然、その様な考えもその人にとっては正解です。
ただ、それを自分に置き換えた時に、
「子どもの成長は近くで見届けたいな~、(自分が転校したことが無いので)子どもを頻繁に転向させたくないな~、いつかは家を持ちたいな~、やっぱり全国転勤は無理!」
という、結論に至りました。
当時はリーマンショックや東日本大震災の影響を色濃く受けた就職難の時期でもあり、今と違って新人が直ぐに退職するというのが当たり前の時代では無かったので、世間体とか将来的な安泰を考えたら躊躇すると思います。
ただ、当時の私としては、将来的に振り返った時に、早期退職したことよりも自分の理想に向けて踏み出せなかったことの方が後悔すると思ったので全く迷いはありませんでした。
今思えば、若さゆえの勢いで決断した部分もありましたが、今もその決断は間違っていなかったと思いますし、その決断を正解に変えようとひたむきに頑張ったからこそ、今の自分があると思っています。

<司法書士事務所勤務時代>

国立大学病院での先生方の働きを見て、専門職って良いなと思っていたこともあり、資格者としてのキャリア形成を模索していました。
そんな中で、ふと興味を持ったのは司法書士です。
法曹界に進んだ友人等から法律に関する仕事の魅力を聞いていた際に、司法書士という資格があるということを知り、登記ってよく分からないけど面白そうって思ったことがきっかけです。
そして、せっかく学ぶのなら実務も学びたいと思い、司法書士事務所に勤務することとなりました。
なお、あらかじめ白状しておきますが、この司法書士事務所勤務時代が私の人生において一番過酷な時期となります(笑)
ハローワークで見つけて、少し遠方でしたが応募したところすぐに面接となり即入所。
給料は、まさかの現金支給。
この時点で、かなり危ない雰囲気が漂いますが、
そこに輪をかけて、ワンマンな高齢の先生とその家族による家族経営という超閉鎖空間。
怒号が飛び交うのは当たり前、何でそこまで言われるのかというレベルの人格否定発言の数々。
ハラスメントが騒がれる令和においては完全にアウトな職場環境。
平成でも余裕でアウトです。
昭和は・・・分かりません!
なお、当時は他事務所の業務内容を知らなかったので、こういうものだと思っていましたが、行政書士となった今振り返ると、当時命じられていた業務は補助者の域を超えた完全アウトなもので、背筋が凍りました。
こんな感じの職場環境だったので実務はあまり学べませんでしたが、
どの様な振る舞いが周りを委縮させるのか、
逆にどの様に接すればその人の良さを引き出すことができるのか、
自分自身のメンタルケア方法などは、自分が身を持って経験したので、その後の人生において大いに役立っております。

この事務所には、結局5か月間勤務していたのですが、ちょうどそのタイミングで妻(当時は彼女)の地元近くの市役所で職員の追加募集があることを知り、転勤が無いどころか超地元密着だし、仕事自体もやりがいがありそうということで受験を決意。
追加募集で受験日まで時間が無かったこともあり、今の状況下では勉強どころでは無いし、ましてや公務員試験の勉強すらしたことがない自分には絶対に無理!と思って退所しました。
先に仕事を辞めて、数週間後に市役所を受験するという超ハイリスクな選択でしたが、拾っていただいて良かったです(笑)

<市役所勤務時代:今だからこそ言える本音3つ>

各課での勤務内容については後述しますが、ここでは市役所全般のことについて、退職した今だから言える本音を3つ書かせて下さい。
なお、具体的な自治体名については、在職中の方にご迷惑がかかるので伏せさせてもらいます。

①優秀な人材はどこの職場にもいる!
まず、私は市役所時代も武田薬品工業の時と同じように同期・同僚・上司に非常に恵まれておりました。
市役所もとても優しい人が多く、仕事ができる人も多い印象です。
新卒で入社した武田薬品工業はTHE・大手企業という感じでしたが、市役所においてもこの人凄いと思えるようなスーパーマンは多く、人材の質はそんなに変わらない印象です。
同期の子とかもみんな人間性も仕事力も申し分ない子ばっかりだったし。

②市役所は楽な仕事で毎日定時あがりは嘘!
よく、市役所職員は定時にあがって、ダラダラと楽な仕事をしていて良いよねと嫌味を言われることがありますが、実際全くそんなことは無いです。
大多数の部署の方は大なり小なり時間外勤務を多くやっています。
今は知りませんが、年度末だと予算が足りなくなり、サービス残業が常態化する部署もあります。
(私の部署はありませんでしたけど。)
一部の部署においては産業医の面談を強いられるぐらいの長時間労働が発生します。
市民対応が時間外に食い込むことなんて頻繁にありますし、大雨や台風の日はそのまま徹夜で市役所待機、大きな地震が起こった時は即招集です。
(なので市役所職員時代の私は地震が起こると真っ先に震度を気にしていました。)
私が、市役所を辞めて一番感じたことは、台風や地震などがあった際に家族と一緒にいることのできる安心感です。
逆に言えば、市役所で勤務をしている職員は災害があった際に、自分自身が大変な中で、市民のために働いているわけです。
こういうことを言うと、たまに市役所職員なんだからそんなの当たり前じゃんと言う人がいますが、公務員である前に一人の家庭を持つ親だったりするわけです。
その家庭(特に子ども達)にとっては、災害時に親がいなくなることが当たり前では無いわけです。
子ども達にとっては一番不安なタイミングで親がいなくなるわけです。
なので、そのような状況下でも、市民のために全力を尽くしている職員に対して、自分たちはやってもらって当たり前の立場だという謎のマウントを取る市民の方を見ると、非常に悲しい気持ちになります。
話が逸れましたが、市役所の職員はガッツリ働いてます!

③市役所職員が相手なら何を言っても許されるなんてことはあるわけがない
昨今、カスハラという言葉がメジャーになってきているので改善傾向にあるのかも知れませんが、残念ながら窓口や電話でこの様な態度を取る方が一定数います。
公務員は「公僕」と言われることがありますが、これは社会全体の奉仕者と言う意味です。
間違っても、特定の市民の方のために僕(しもべ)として働いているわけがありません。
よく、税金を払ってるんだから、税金で飯を食べているお前らには何を言っても許されるという謎の思考回路の人がいますが、絶対にそんなことありませんよ?
税金は特定の人から頂いているわけではなく、みなさんから(もちろん職員も)頂いているからこそ、頂いた税金はしっかりと社会に利益として還元できるようにしなければいけません。
ただ、そのままだと還元できないので、それを還元する(一般企業がやらないような、儲けがないけど大切な仕事も含めて)のが公務員の仕事です。
そして、その還元方法は決して特定の方の理不尽なクレームを聞いてその人をスッキリさせてあげることではことではありません。
厳しい言い方をしますが、税金泥棒!と長時間電話で罵り、円滑な業務を阻害することこそ税金泥棒です。
私は理不尽なクレームに対しては毅然とした態度を取る方で、上司も理解がある方々だったため、場合によっては一緒に対応して部下を守るというスタンスを取ってくださったので良かったのですが、残念ながら在職中に疲弊してしまう職員を多く見てきたので、公務員の方々の職務環境の向上を願うばかりです。

今だから言える本音ということで、暴露系とか公務員に対する批判を期待していた人は全く真逆の内容ですいません(笑)
何を隠そう、私は暴露系とか誰かを貶める行為が大嫌いなのです。
ていうか、私の性格上、もし不平不満があるのなら、退職後にぶちまけるのではなく、間違いなく在職中に主張してます(笑)
それに、過去を否定することは、今まで紡いできた自分の生き方を否定することになってしまいますし、大変なことが無かったわけではありませんが、本当に周りの方に恵まれていたので、役所の方々に対しては感謝しかないというのが一番の本音かもしれません。

<市役所勤務時代①:総務人事課>

入庁して最初に配属されたのが総務人事課です。
総務人事課と言っても、総務担当だったので人事は全く分かりません。
主な業務は庁内の文書管理や情報公開請求への対応、議会事務でした。
特に議会事務については、日程が決まっているのでスケジュール管理がシビアなのは勿論のこと、各部があげてくる答弁書を取りまとめて誤字脱字のチェックをしたり、市長の庁内レクチャーをセッティングしたりするのですが、これがなかなかの曲者でした。
文章ではサラッと書けますが、やらなければいけないことは議会に向けた庁内調整です。
そして、議会における庁内調整ともなると、大体の対応相手は他部の部長級職員です。
当時は入庁して右も左も分からない状態、そんな状態の職員が部長級の職員にここは訂正でお願いしますとか伝えに行くわけです。
相手の部長からしても、よく分からない若造がいきなり来て、自身が一度目を通した文章に対して訂正を促すわけです。
少しでもこの若造が調子に乗った態度を取ろうものなら、その後に起こる事態は火を見るよりも明らかです。
とにかく謙虚・丁寧・スピード感を意識して緊張感MAXで業務に臨んでいました。
まあ、実際は皆さん良い人で、全然そんな心配はいらなかったんですけど、謙虚・丁寧・スピード感は未だに強く意識して仕事に臨んでいます。
なお、この業務を通して、入庁早々に庁内のいろんな方と関わることができ、情報公開事務や文書管理事務などは今の業務にも通じるところがあるので、非常に良い経験をさせていただいた思っています。

<市役所勤務時代②:スポーツ振興課>

市役所では毎年異動希望の調査があります。
通常は、ほとんど考慮されないと言われていて、希望部署等を白紙で出す職員も多いのですが、小さい頃からサッカー漬けのスポーツ大好き人間の私は、人知れずスポーツ振興課への異動を希望していたところ、なんと本当に異動できることに。
どうやら、自ら希望する人が他には・・・ゴホン。
市役所職員で働いている方はみなさん共感してくれると思いますが、市役所の仕事は異動で課が変わるとほぼ転職みたいなものです。
同僚や上司など、知っている人が周りにいますが、仕事内容は180度変わると言っても過言ではありません。
ましてや総務関係の部署からスポーツ関係の部署への異動ともなると、それはそれは凄まじいギャップがありました。
だって、今までスーツを着て仕事をしていたのに、いきなり次の日からジャージでの出勤に変わります。
今までは庁内対応だったのに、急に市民対応に変わります。
土日祝日休みだったのに、土日に出勤して平日休みということが当たり前になります。
まあ、仕事自体は大変な時期もありましたが、すごく楽しかったです。
大好きなスポーツに関係する仕事ができて、その仕事を通して市民の人もハッピーになれるんですから、自分には最適な仕事でした。
ちなみに、本庁勤務では絶対にあり得ないのですが、少数精鋭のスポーツ振興課ではイベントシーズンになると、職員総出での出勤が当たり前のようにあり、9連勤ぐらいは余裕でこなせるようになります。
慣れって怖いものです。
また、この時に市役所の職員として仕事をすることの素晴らしさを実感したエピソードがあります。
よく公務員は、前例踏襲しかしないって言われるじゃないですか?
当然、過去の出来事との整合性を取るために前例を踏まえることは重要ですが、それを言っていたら、いつまでたっても新しいことはできません。
私はこんな感じの性格なので、やりたいことややってみたい企画があるたびに、職場で提案していたのですが、そんな時に世間一般で言われるお役所仕事の上司だと「予算が無い」だとか「前例が無い」だとか、何かと理由をつけて取り合ってくれないかも知れません。
ところが、私が実際に関わってきた上司はみなさん正反対で、この若造の突拍子もない提案に対しても、「予算が無い中でどうやったらできるか考えよう」というスタンスだったので、非常にノビノビと業務ができました。
そして、この時に実際にやりたかった企画が「市にゆかりのあるアスリートのパネル展」です。
市民の方に、市にゆかりのあるアスリートを紹介することで、身近なヒーローとしてそのアスリート自身を知ってもらうだけでなく、子ども達に夢や希望を与えることができればと思っていました。
調べてみると、どうやら市に関係するJリーガーやプロ野球選手、女子プロバスケットボールなどが複数人いることが判明。
ダメ元で所属チームにコンタクトを取ってみました。
(なお、某プロ野球球団についてはどうしても連絡先が分からず、学生向け就職サイトから採用担当を経由して連絡することになったのは良い思い出です。)
当然新規の企画のため予算はありません。
プロの選手に対して、取材費や謝礼などは一切無く、企画に協力してもらえないかという何とも破天荒な企画。
ただ、市民のためにやりたいという熱意だけはありました。
すると、驚くことに全ての球団がオールOK。
企画展で使う写真の提供だけでなく、サインの提供や、私が文書でお願いしたインタビューに対する回答もいただけました。
後々、某サッカーチームの職員の方に聞いたところ、お金の問題ではなく、チームとしても選手がピッチ外で地元に貢献できる企画を考えてくれてありがたいですということを仰っていただき、担当者冥利に尽きるの一言でした。
地元のために貢献したいという気持ちを、選手のみなさんが抱いてくださったことが全てですが、その選手たちと地元との橋渡しができたのは、個人でも一般企業でもなく、自治体の職員としてアプローチできたからだと思っています。
余談ですが、この企画を実施するにあたって、某Jリーグのチームにいたっては、ホームタウンの兼ね合いがあるので、埼玉県の自治体に協力する際には、埼玉県のチームに事前確認をした上で協力させていただきます!とのことで、実際にJリーグのチーム同士で事前調整をしていただきました。
もちろん、埼玉県のチームも快諾。
普段は凌ぎを削るプロチーム同士ですが、ピッチ外ではお互いに配慮して活動していることを知る貴重な経験となりました。

<市役所勤務時代:企画経営課>

充実したスポーツ振興課での日々を過ごしていた私ですが、そんな中で世間を揺るがす大事態が起きました。
新型コロナウイルスの蔓延・・・。
スポーツ関係のイベントはことごとく中止、市内の運動施設も閉鎖を余儀なくされる状況でした。
そんな中でも出来ることはあるはずと、前例が無い中でも出来ることをいろいろ模索してみました。
ちょっとマニアックな筋トレメニューをリーフレットにしてみたり、コロナで中止になったかけっこ教室の代わりに、YouTubeでWEB版かけっこ教室を実施してみたり。
ただ、市として注力するポイントはそこではありません。
そんな状況下で私に白羽の矢が立ちました。(と、自分では勝手に解釈しています。)
ある日、会議室に呼ばれて入ってみると、そこには部長の姿。
ただ事ではありません。
そこで、告げられたのが企画経営課との兼務と言う名の実質的な異動です。
ただ、企画経営課とは言っても通常の業務とは大きく違い、
私が所属するのは、新型コロナウイルスの特別定額給付金チームです。
国民一人あたり10万円を給付金として支給したやつと言えば、思い出す方も多いでしょう。
この出来事を当時の担当者目線で振り返ると、なかなかカオスな毎日でした。
自粛自粛の毎日で社会の不満は最高潮、そんな中で行う給付金業務は、あらゆる人々の鬱憤を矢面に立って受けるようなものです。
まず、市内一斉に数万通の郵便を同時に配付することは不可能です。
郵便業務がパンクします。
したがって、順番に郵便が配付されることになるのですが、その時点で何故うちには来ないのかとクレームの嵐。
今度は一斉に数万通の申請が市役所に寄せられるのですが、送られてきた郵便を開封する作業ですら、各課から職員派遣してもらって庁内総出行っても、とても一日では終わらないレベルです。
そして、私たち給付金担当はその途方もない大量の申請を1日でも早く、1円の狂いもなく確実に処理しなくてはいけません。
当然、無理とか言っている状況ではありません。やるしかないんです。
当時は夜間も休日も関係なく働き詰めでしたが、この時も周りの方に恵まれていたため、大きなトラブルも無く、無事に業務を遂行することができたのは大きな自信となりました。
そして、この時に私は今の行政書士の仕事にも繋がる超貴重な教訓を得ることになります。
「申請をスムーズに行うためには、書類を体裁通りに確実に揃えることが超重要!」
一見当たり前のことを書いていますが、実は審査以前にそもそも必要書類が揃っていないケースがかなり多いです。
審査する職員は確実な処理を求められますが、必要な書類が無いとそもそも審査ができないので、追加書類を依頼するしかありません。
また、疑義が生じる記載内容も多く、このような場合は後々ご本人に内容確認をしたりするのですが、体裁が全て整っている書類を優先して処理するため、疑義が生じている申請は結果的に処理が後に回される場合が多くなります。
一部の不明瞭な記載がある申請の対応に注力して、大多数の適正な申請の手続きが遅れるなどということがあってはならないからです。
このような経験から、私自身が行政書士として申請する際には、スムーズな申請を実現させるためにも、必要書類を揃えるのは勿論のこと、立証書類もできるだけ審査する職員の方に疑義が生じないものを準備するように心がけています。

<市役所勤務時代:健康増進課>

新型コロナウイルスの特別給付金担当での職務を無事に遂行し、スポーツ振興課に帰還しましたが、まだまだ、コロナは猛威を振るっていて、通常業務とは程遠い状態でした。
そして、帰還して間もないある日、私は会議室に呼ばれることになります。
そこにいるのは部長。
流石に、2回目は察しがつきます。
あの課ですよね。分かります。全庁的に今後応援体制を組むって言ってたし。
最早、答え合わせをするかの如く、部長から兼務先を聞きます。
告げられた兼務先は健康増進課(俗に言う保健センター)。
コロナ禍における保健センターで応援体制が組まれる業務など1つしかありません。
そうです。新型コロナウイルスのワクチン接種担当です。
まだスポーツ振興課でやりたいことはたくさんありましたが、自分を必要としてくれているところで最大限頑張るしかないと前向きに捉えて、保健センターに向かいます。
結果的にこれが片道切符になるとは思っていませんでしたが(笑)
未知のウイルスが猛威を振るい、マスコミが盛んにクラスターを叫ぶ社会情勢。
誰もが不安になる日々の中で、盛んに推奨されていたワクチン接種。
当然、当時の現場には市民からの問合せという名のクレームが殺到していました。
対応している職員としても、一人の人間として不安な気持ち分かるし、どうにかしてあげたい気持ちはあります。
しかし、協力していただく医療機関も通常診療と並行してのワクチン接種ですし、集団接種会場を設けたところで、数万人規模の接種体制を確保することなど当然できません。
そもそも国からワクチンが来ないし。
当時は、担当していて「市民の気持ちに寄り添うことはできるが対応はできない。」というもどかしい気持ちがありました。
ただ、市民の方からすればそんな事情は一切関係なく、「目の前にいるお前が全て悪い!」ぐらいの勢いで、それこそ公務員なら何を言っても許されると勘違いした方々から、市ではどうすることもできないことに対して数々の罵声を浴びることになりましたが・・・。
まあ、ただこの時の経験のおかげでクレーム耐性は飛躍的に高まりました。
肝心の業務は、数万通に及ぶ接種券の発送、職域接種の管理を確実に行うのはもちろんのこと、真冬の市民センターのホールで、ご自身での予約が難しい高齢者の方向けの予約サポートたり、時には他のチームのサポートとして自宅療養者のご自宅に行き配食サービスを届けるなど多岐に渡るものでした。
その中でも、コロナの特別給付金担当の時とは異なる緊張感があり印象に残っている業務は2つです。
1つ目は、集団接種会場の運営です。
サポートスタッフの方々にご協力いただき、毎回数百人のワクチン接種を実施するのですが、
午後の予約なのに午前中から並び出す人は当たり前。
接種券を忘れる人がいたり、
明らかに体調不良な人が来たり、
当日ドタキャンした人が出たらキャンセル待ちで登録されている人にとにかく電話をかけまくったりと、
とにかく毎回イレギュラーな事態のオンパレード。
元々、スポーツ振興課でイベント運営をしていた際に、
イレギュラーは常に起こるものであり、その都度柔軟な対応が求められるということは心得ていましたが、集団接種についてはどのようなトラブルが発生するかが全く読めず、毎回スムーズな会場運営のために神経をすり減らしていました。
2つ目はワクチン数の管理です。
これが、一番プレッシャーがありました。
入荷するワクチンの数に応じて、市内の医療機関の予約枠を調整するのですが、ただ単にワクチンを割り振れば良いという単純なものではありません。
市民からはワクチン接種を希望する声が非常に多い中で、各医療機関には最大限の接種協力をお願いします。
上司の方が各医療機関にお願いして、なんとか接種できる人数を増やしていただくのですが、そもそも予約枠を拡大して前倒しでワクチンを使っても、その後国から供給されるワクチンの量は不透明です。
一度に大量のワクチン接種を行いワクチンを使い切ったが、翌月以降は国からのワクチン供給が激減したためワクチン接種を一時中断します!なんて事態になったら、それこそ新聞に載るレベルの大惨事です。
実際に、国からのワクチン供給は配送スケジュールが突然変更になったり、次回以降の供給量が突然激減するなど非常に不安定な状態でした。
とにかく国の動向に振り回され、市民と国の方針との板挟みになる日々。
まさに某映画のあのワンシーンのような状況です。
「ワクチン接種は会議室で起きているんじゃない!現場で起きているんだよ!」
多分、私に限らず全国の多くの担当者が感じていたことでしょう。
これも公務員では無くなった今だから言えることです。
そんな、ギリギリの状況下でのワクチン管理なので、できるだけ多くの方が摂取できるように接種数は拡大したい。でも、万が一にでもワクチンが足りなくなるようなことが起きてはいけないという、相反する事象の中で最適解を模索するという業務は、とてつもない緊張感との戦いでもありました。
保健センターから各医療機関機関へワクチンを届けるたびに、どんどん減っていくワクチンの在庫をみて、理論上は大丈夫だけど本当に大丈夫なのかという漠然とした不安。予定通りワクチンが入ってきた時の安堵感は言葉にはできません。それくらいの重圧があったのを覚えています。
ちなみに、ワクチン供給事務の一環で、定期的に市内の医療機関をまわることになったのですが、製薬会社のMRではなくなったのに、市役所職員として同じように医療機関をまわることになり、人生不思議な縁があるものだなと感じた瞬間です。
保健センターでの日々はとにかく綱渡りの毎日で、今思い出しても冷や汗が出ます。
でも、大きなトラブルもなく、ワクチン接種業務をやり切れた時の達成感はすごくあったのを覚えています。
また、一緒に働く保健師の方々の活躍を目の当たりにし、やっぱり自分も専門職としてやっていきたいという思いは強くなりました。

<市役所勤務時代:交通防犯課>

保健センターの激動の日々を過ごしているさなかの異動発表。
当時の私はスポーツ振興課と健康増進課の兼務。
しばらく健康増進課での業務は続くだろうとは思っていましたが、そのうちスポーツ振興課に戻るだろうという感覚です。
特に緊張感もなく、発表された内示を見ると、まさかのスポーツ振興課に自分の名前が無い。
当時の市役所では異動者に〇のマークが付されていたのですが、私の名前の前にも〇がしっかりと付いています。
異動先は交通防犯課とのこと。
勤務先は保健センターで変わらずですが、兼務先(所属)が交通防犯課に変わりました。
文字にすると何とも分かりにくい。
結局、交通防犯課1年目は保健センター業務のみで、所属元の交通防犯課業務に携わることは1回もありませんでした。
異動したのに、勤務実態が一切ないということで、私は勝手にサイレント異動と呼んでいます。
さて、サイレント異動をした翌年の内示の時期です。
この時には既に、私の保健センター業務はその年度いっぱいで終了することが決まっていたため、新たな業務になることは確定していました。
サイレント異動したにも関わらず、1回も業務実態が無かったため、もしかしたらまた異動かなとも思い、ドキドキしながら内示を見ると、今年も私の名前の前に〇が付いていました。
そうです。異動です。
名前が書いてあった課は交通防犯課です。
あれ?と思った方は鋭いです。
そうです。私は2年連続で同じ課に異動になったのです。
サイレント異動で実質的な勤務実績が無かったため、前年度の異動は無かったことになったのでしょう。
恐らく、2年連続で同じ課に異動した唯一の職員だと自負しております。
市役所は異動をすると転勤のようなものだと前述しましたが、交通防犯課の業務も全く他課とは異なるものでした。
交通防犯課の業務は、文字通り交通(交通安全)と防犯を担う課だけあって、所轄の警察署との連携がとても重要になります。
所轄の警察署の電話番号なんてすぐに覚えてしまうぐらいの勢いで連絡を頻繁に取ります。
警察の方って最初は怖いイメージがあったのですが、実際にはフランクな方が多く、私と同じようにまずは行動する!みたいな方が多かったので、非常に仕事がやりやすかったです。
行政書士の業務では古物商や深酒、車庫証明など、警察署が関係する申請もたくさんありますが、交通防犯課時代に警察署との連携を多く経験できたことは、今の業務においても非常に役立っています。
警察関係業務以外でも、補助金業務を取り扱ったり、条例制定(文書事務)に携わったり、工事の入札に関わったりと、現在の業務に繋がる経験が多かったと思います。
あと、防犯カメラの確認や各種看板の設置などとにかく現場に行くことが多かったので、機動力や現場対応力なども少なからず今の業務に活かされているかなとは思います。
それ以外にも、小学校や保育園・幼稚園を回って交通安全教室をやったり、自転車安全大会に市内代表として出場する小学校に1か月間通って、児童・先生・警察・交通安全協会のみなさんと一緒になって練習に励んだり、防犯活動の一環として地域の防犯団体の方と一緒に市内を回ったりと、とにかく市民の方々と一緒に何かをやるという業務が多くて、すごく楽しかった思い出があります。
時にはただ啓発品を渡すだけではなく、どうやったら子ども達に喜んでもらえるかと考え抜いた結果、予算が無い中で、みんなで段ボールを使ってガチャガチャを作ってみたり。(カプセルは事情を話したらゲームセンターで無償提供していただきました。)
交通防犯課での業務も、出来ない理由を見つけるのではなく、どうやったら出来るかを一緒に考えてくれる仲間がたくさんいました。
当時の課長をはじめ同僚の方々は、優しく真面目でとにかく素晴らしい職場環境でした。
この場を借りて御礼申し上げます。
まあ、大変な時期もいろいろありましたが、周りの方々に恵まれればなんとか乗り切れること実感しました(笑)

<市役所勤務時代:退職を決意>

市役所生活も周りの方に恵まれ、とても充実したものでしたが、私自身の市役所生活は10年で幕を閉じました。
市役所での仕事はとてもやりがいがあり、人間関係の面でも非常に恵まれていました。
余談ですが、未だに市役所のサッカー部の市リーグの試合に参加させていただいているので、退職後も変わらぬ関係を築かせていただいているサッカー部の皆様にはこの場を借りて感謝申し上げます。
話は逸れましたが、その状況下でなぜ退職の決断をしたかというと、
その理由は、武田薬品工業を退職した時と同じように「将来ビジョンとのズレ」です。
当時、35歳だった私は、40代は専門家としてプロフェッショナルな道を歩んでいきたいというビジョンがありました。
折しも、その年は係長級の昇任試験がある年で、自分が描きたいキャリアと、市役所で描けるであろうキャリアとのギャップが浮き彫りになります。
理想の自分は、40代で専門家としてその道の第一線で活躍している自分。
ただ、どう考えてもこのままだと40歳になった時点での最高到達点は係長(今は少し変わったようですが)。
そのまま順調に出世して管理職になったとして、果たしてそれは何歳なのか?
そもそも、異動したら転職とほぼ変わらない市役所業務において自分は将来何をやっているのか?
10年間で5課(5部)を経験するという稀有な役所人生を歩んでいた私には想像できませんでした。
明確にプロフェッショナルを目指していた自分には埋められることができない大きなギャップがあったわけです。
もちろん、係長がダメだとか、職位の問題では当然ありません。
例えば係長はプレーヤーに近い立場でよりダイナミックに現場を回すことができ、課長職や部長職にもたくさんのやりがいがあることは重々承知しています。
素晴らしい上司をたくさん見てきたので。
ただ、自分の人生観で考えた時に、プロフェッショナルを目指したいという思いが強かったので、
在職時に行政書士試験に合格していたことから、行政書士としてプロフェッショナルを目指す決意をしました。
当時の私は、3児の父。
その年の秋には4人目の子どもが誕生予定
でした。
一旦、係長になって、子育てが落ち着いてから独立するとか、やろうと思えばいくらでも違う選択肢はあったと思います。
ただ、昇任して職責が重くなった立場で業務を投げ出すようなことはしたくなかったのと、この決断をやって良かったに変えるのは自分次第だと思っていたので、昇任試験は辞退し退職することとなりました。
余談ですが、本来公務員の退職と聞くと、最後は有休消化をしてまったりとその日を迎えるとお考えの人も多いかと思いますが、私の場合は年明けに非常に大きな出来事があり、有休消化どころか最後まで多忙を極めました。
この場で詳しい内容は差し控えますが、少しでも最後に自分の力が還元できたのなら幸いです。

<Restart行政書士事務所を開業>

令和7年5月20日に埼玉県三郷市にRestart行政書士事務所を開業しました。
実際のところ、行政書士登録日は5月15日なのですが、私の中では5月20日が結婚記念日だったり、大切な出来事が重なっている日なので、開業届は5月20日に提出し、事務所の開業日も5月20日にしています。
開業後1年間は、行政書士としての活動はかなり抑えていたのが正直なところです。
前述したように、第4子が生まれてまだ間もなかったこともあり、育児の面でのプライオリティーを非常に高めていました。
この間の行政書士業務は、多少の事務作業と少しばかりの情報発信、同業他士業の先生方との関係構築ぐらいでした。
開業1年目の行政書士としては完全に落第点の出来ですが、子どもの大切な瞬間の多くに父親として関われた喜びは何にも代えがたいものです。
そして、この期間を通して、フル充電ができたので、今まで以上のバイタリティーで今後の業務に臨んでいこうと思っています。

<現在注力している業務>

今、当事務所が最も注力している業務は建設業許可です。
なぜ、建設業許可に注力しているかというと、一番情熱を注ぐことができると思っているからです。
市役所で培った事務処理能力が活かせるとか、役所の申請対応に慣れているとか他の理由も無くは無いですが、それはあくまでもスキルの話で、一番大切なのはそこでは無いです。
その業務に情熱を持てるか。
そこに尽きると思います。
そして、私自身それに一番合致している考えているのが建設業許可です。
思えば、就職活動をしていた学生時代、私の第一志望は鉄鋼会社でした。
(恐らく、あまりにも長すぎて多くの方はこの時代の記載を読んでないと思いますが)
日本代表として世界と戦いたいという思いとともに、「素材」という観点で社会を根底から支える鉄鋼会社に憧れがあったからです。
日常生活において鉄を意識することはほとんどありません。
でも、誰も意識をしない鉄が当たり前のようにあるからこそ、当たり前の日常生活が送れているわけです。
建設業も同じです。
建設業は「技術」という観点で社会を根底から支えています。
何気なく歩く道路、子ども達が遊ぶ公園、蛇口をひねれば当たり前のように出てくる水。
私たちの当たり前の日常は、誰かのおかげ成り立っています。
その「誰か」こそが、日々現場で汗を流し、技術を繋いでおられる建設業の皆様
です。

誰もが意識しない場所で、誰もが不可欠なインフラを創り、守り続けている。
その姿は、かつて私が憧れた鉄鋼会社の「社会を根底から支える」という存在意義と、完全に重なっています。
私が建設業許可に注力するのは、手続きを代行したいからではありません。
許可という確かな基盤をお届けすることで、社会の根底を支える皆様の事業を守り、さらに発展させるパートナーでありたいからです。

「自分の技術を活かして、もっと大きな仕事に挑戦したい」
「次世代のために、会社として強固な基盤を整えたい」

そんな熱い想いを持つ皆様の、一番の味方でありたいと思っています。
皆様が創る未来の街のために、私は今日も情熱を持って、書類の一枚一枚、手続きのすべてに向き合っています。
もちろん、建設業に限らず、どの様なご依頼に対しても真摯に向き合い、とにかく調べあげ、今お客様が抱えている「手間」を「ゆとり」に、「不安」を「安心」に変えられる存在になれたらと思っています。
まだまだ、駆け出しの行政書士として学ばなくてはいけないことがたくさんあるのは事実です。
でも、あの時お願いして良かったと思っていただけるように、全力で誠実に業務に励むことは自信を持って断言いたしますので、今後ともよろしくお願いいたします。